正史『三国志』における徐晃まとめ
陳寿 著、裴松之 注
『三国志』魏書 十七 張楽于張徐伝より。
■初登場
徐晃字公明 河東楊人也
司隷河東郡楊県の人・徐晃は、はじめ郡吏となり、車騎将軍・楊奉の賊徒討伐に従軍して功績をあげた。
李傕・郭汜の争乱では、帝を救って洛陽へ帰還するよう楊奉に進言し、これを成功させた。
■曹操軍へ
晃說奉令歸太祖
打ち続く内乱から徐晃は楊奉を説得して、曹操軍の庇護を受ける。
しかし楊奉は心変わりを起こして謀叛し、やがて曹操軍に敗れた。
曹操から軍勢を授けられた徐晃は賊討伐の功をあげ、 呂布との戦いで別動隊として活躍、続く劉備との戦いでも武功をあげる。
破顏良 拔白馬 進至延津 破文醜
擊袁紹運車於故市 功最多 封都亭侯
さらに故市で袁紹軍の兵糧車両を攻撃し、功績は最も多く、都亭候に封ぜられた。
■戦わずして勝つ
袁家征討の折、易陽を守る敵将・韓範は、曹操に降伏を申し入れたが、心変わりして抗戦した。
しかし徐晃はあえて攻撃せず、韓範を説得して再度降伏の約を取り付けた。
二袁未破 諸城未下者 傾耳而聽 今日滅易陽 明日皆以死守 恐河北無定時也 願公降易陽 以示諸城 則莫不望風
「袁譚・袁尚はいまだ健在で、敵の諸城は降伏か抗戦か揺れています。
ここで韓範の降伏を赦さねば、他の城兵も降伏は許されぬと死に物狂いで抗戦し、華北の平定は遠のくでしょう。
いま韓範を赦せば、他の諸城もこぞって降伏を願い出るに違いありません。」
■漢津の戦い
徐晃はその後も転戦し、南皮で袁譚を破り平原の賊徒を討ち、烏丸族討伐でも武功をあげる。
又與滿寵討關羽於漢津
漢津において、満寵と共に関羽を攻撃した。
■潼関の戦い
徐晃は太原で賊徒を征討し統帥・商曜を斬った。
この時、徐晃は故郷である河東を慰撫し、曹操は徐晃に牛酒を下賜して祖先の墓を祀らせた。
潼関に至ると、曹操は黄河を渡れない事を心配し、徐晃の意見を聞いた。
公盛兵於此 而賊不復別守蒲阪 知其無謀也 今假臣精兵渡蒲坂津 爲軍先置 以截其裏 賊可擒也
徐晃は、蒲阪津の敵の守りが手薄であると看破し、精兵を率いて黄河を渡り敵軍の後背を突くべしと献策。
曹操はこれを良しとし、徐晃は四千の兵馬を率いて蒲阪津を攻略、敵将・梁興を撃破した。
これにより曹操の軍勢も渡河に成功し、馬超らの軍勢を撃退した。
■漢中攻略
徐晃はその後、夏侯淵らと共に西の氐族を幾度となく討ち破り、多くの地を平定した。
張魯征討では別動隊として活躍、反抗する勢力をことごとく降伏させた。
■馬鳴閣の戦い
漢中に侵攻する劉備軍に対し、夏侯淵・徐晃らは陽平関で防戦する。
劉備軍の将・陳式が馬鳴閣道を遮断するも、徐晃はこれを奇襲し見事に討ち破った。
太祖聞甚喜 假晃節
■樊城の戦い
関羽の脅威に危急を告げる曹仁を援護すべく、徐晃は宛城に入る。
折しも水計で于禁の七軍は壊滅し、樊城は関羽軍に包囲されてしまった。
しかし徐晃が率いる急造軍は新兵が多く、関羽と争うのは困難である。
徐晃は慎重に戦力が整う時機を待つ。
やがて中央から徐商・呂建らの援軍が到着し、兵馬の士気と練度が高まった機を見て徐晃は一気に進軍する。
晃到 詭道作都塹 示欲截其後 賊 燒屯走 晃得偃城
偃城を守る関羽軍に対し、徐晃は塹壕を掘って包囲する構えを見せるがこれは詐術だった!
後背を断たれる事を恐れた偃城の守軍は撤兵し、徐晃はここでも戦わずして城を落とす。
曹操から殷署・朱蓋らのさらなる援軍を得た徐晃は両翼に布陣を広げ、ついに樊城を包囲する関羽軍に迫る。
頭と四冢、二つの拠点があった。
徐晃は頭を攻撃する構えを示していたが、密かに四冢に猛攻を仕掛る。
羽見四冢欲壞 自將步騎五千出戰 晃擊之 退走
予定外の四冢陥落の危機に関羽が自ら出陣!
一戦して関羽は敗れ、徐晃は機を逃さず敵陣へなだれ込み見事樊城の包囲網を撃破した。
■労徐晃令
吾用兵三十餘年 及所聞古之善用兵者 未有長驅徑入敵圍者也
「私は兵を用いること三十余年、古の戦巧者をよく知っているが、これほど長躯直入し敵の包囲陣を討ち破った者は他にいない。」
將軍之功 踰孫武穰苴
「将軍の功績は、古の名将・孫武や司馬穰苴にも優るであろう。」
徐晃は凱旋し、曹操は城外七里先まで自ら出迎えて酒宴を開き、徐晃に酌をして労った。
全樊襄陽 將軍之功也
徐將軍可謂有周亞夫之風矣
「襄樊の地を全う出来たことは、将軍の功績である。」
「徐晃将軍には周亜夫の風格がある。」
■晩年
上庸で劉備軍を破り陽平関の守備を固めた。
晩年は病が重くなり、「季節の衣服を着せてくれ」と遺言して亡くなった。
■人物
徐晃の性質は倹約慎重で、常に遠くまで斥候を出して情報収集を徹底し、あらゆる場合を想定して慎重に戦った。
一方で機を見出すや、士卒に食事の暇も与えぬほど激烈に攻め立てた。
張遼、楽進、于禁、張郃、徐晃の五将軍は共に名将と称され、曹操軍が戦うたび皆代わる代わる先鋒・殿軍を引き受けて活躍した。
古人患不遭明君 今幸遇之 常以功自效 何用私譽爲
「昔の人は良き主君に遭えない事を嘆いていたが、今、私は幸いにも明君に仕える事が出来ている。どうして個人の栄達など求めようものか。」
いつもこのように言って、私的な交友は広げなかった。
太和元年(二二七)に薨去。
「壮侯」と諡名された。
子の徐蓋が継ぎ、孫の徐覇が継いだ。
終わり
【参考文献】