徐晃伝 三十八『急転直下』
馬鳴閣の街道へ進出した蜀将・陳式は、軍師法正の戦略眼に感嘆した。
「主戦場より遥か北西、この馬鳴閣は漢中と中原を結ぶ喉元にあたる。
・・・山険の攻防にばかり目を取られていたが、これは妙手よ」
敵と戦って討ち破るだけでなく、軍を迂回させ敵を包囲する。
軍略とは斯様なものと心得るばかりであった。
「街道の守りをしかと固めよ!
我らの布陣が、中央の友軍を助ける力となるぞ!」
南の定軍山へと続く街道に万全の防備を固め、陳式は将として任を果たしていた。
陣の北側、裏手には漢中の険峻な峰々が連なっている。
ふと山側へ振り向いた陳式は、突如、そこに広がる光景に目を疑った。
山上を覆う魏軍の旗印。
急襲である。
騎馬が嘶(いなな)き、弓矢が一斉に放たれた。
「いかん!後ろだ!」
陳式は咄嗟に盾に隠れるが、味方は突然矢の雨に晒され、わけもわからず次々と倒れる。
魏軍騎馬隊の先陣に輝く白い頭巾と蒼い鎧。
精悍な将が堂々、雄叫びを上げた。
「徐公明、推参!
いざ攻め掛かれっ!
敵を悉(ことごと)く討ち果たすのだ!」
鬨の声が山合いに響き渡り、轟音を上げて一挙に、目下の陣へ大軍が雪崩れ込んだ。
その勢いは猛々しく苛烈、魏軍は殺到し次々と蜀兵を討ち取った。
蜀軍は壊走し、逃げ惑う果てに谷底へ転落する者も多々あり、惨たらしい有り様であった。
陳式は命からがら戦場を離脱し、斯くして馬鳴閣の要衝は徐晃率いる魏軍が奪取した。
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勝ち鬨が山険に響き渡る。
魏軍にとって、久々の快勝であった。
魏王・曹操はこの戦果を大いに賞賛し、将・徐晃に仮節の大権を授与して功に報いた。
膠着していた漢中の戦況はここに急展開を迎える。
「我が軍が北を抑え、東には張郃殿。
中央の本軍と連携すれば、蜀軍の優勢を覆す事が出来よう」
徐晃の一手が戦略を大きく動かした。
陣営は慌ただしく動き回り、軍議を武官らと重ねながら徐晃は、次なる戦いに備えて意気込む。
そこへ突然、伝令の兵が駆け込んで来て、叫んだ。
「夏侯淵将軍、討ち死に!」
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士卒皆、茫然とした。
卒爾たる総大将の戦死に驚愕と、焦燥と不安とが一挙に押し寄せる。
人望の厚い将であった。
伝令の兵は涙すら浮かべている。
徐晃は一瞬、言葉を失った。
しかし一軍の将である。
静かに呼吸を落ち着かせ、拱手し、言った。
「夏侯淵殿・・・多くを学ばせて頂き申した。
まこと、世話になり申した」
上に立つ者の動揺は即座に下士官へ伝播し、増幅する。
将たる者の務めとはいつ如何なる状況にあっても冷静であり、悠然と構え、扇の要たる事である。
徐晃の堂々たる態度は士卒の動揺を鎮め、勇気を与えた。
「皆、奮い立つのだ!
この徐公明が共に在り申す!」
急転直下の戦況に、しかし徐晃率いる魏軍はかえって奮起する。
曹洪ら宗家の将、そして夏侯淵の薫陶甚だなる張郃、郭淮、子の夏侯覇。
遺された諸将も徐晃と同じく志を熱く滾らせる。
士卒一体、亡き夏侯淵の弔いに昂ぶり、山は震えた。
魏王・曹操は、この局面に自ら総大将として漢中へ進軍する事を決し、ここに宿命の敵・劉備との決戦に臨むのである。
徐晃伝 三十八 終わり