『源太左衛門〜真田六文戦記〜』第一文銭:秋風川中島
落ち着いている。
息が、である。
未明、源太左衛門は登山をしていた。
すなわち、夜陰に乗じて上杉本陣を奇襲すべく、裏手より妻女山を駆け登っていた。
馬には轡を噛ませ、蹄は布で覆い、鎧兜は脱ぎ捨て篝火も焚かず、武田軍別動隊一万二千は密かに上杉軍本陣が座す霊峰・妻女山の山頂へと向かっている。
将は気鋭の重臣・山県三郎兵衛昌景、馬場民部少輔信房、この両名。
源太左衛門は父・真田一徳斎幸隆に従い、此度、初陣と相成ったのだ。
(源太、覚悟は良いか。)
父が馬上より無言にて、身振り手振りにて源太左衛門に覚悟を促した。
(応よ。)
初陣だが、怒髪冠を衝くが如きこの若武者の胆力は、今潮の満ちるが如く、揚々である。
山頂まで登り身体は火照っている。外気は朝靄が湿りて、冷たい。
このまま静まれば汗も冷えて、寒さに震える事にもなろうが、今まさに、大合戦が始まる。
燃え滾る如く我が身は、露も汗をも戦の熱が蒸発せしむ。
我此れより、鬼と化して侵掠せむん!
上杉本陣の白き帷幕は、僅かな木々を隔てて目と鼻の先にある。
(・・・静か過ぎるのではないか。)
源太左衛門が思うと同時か、将山県の怒号が響いた。
「すわ、掛かれィィイイイーーーッ!!!」
武田軍一万二千、疾風迅雷の如く一斉に上杉本陣に斬り込んだ。
(・・・!!!)
もぬけの殻である。
「図られたわ」
帷幕の人影は、全て藁のカカシだった。
「・・・御屋形様が危ない」
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早朝の八幡原には濃い霧が立ち込め、一寸先の見通しも効かぬ有り様であった。
甲斐の虎と名高き大大名、武田大膳大夫晴信が率いる武田軍本隊八千は、八幡原に陣を布く。
軍師・山本菅助某の献策により、軍を二手に分けて別動隊が妻女山上の上杉本陣を奇襲、追われ逃げて山を降りた上杉軍を、麓の八幡原にて待ち伏せる本隊が迎え討ち、挟撃せしむ軍略である。
が、外れた。
戦国大名の采配には、二通りある。
その二極のバランスが、将の戦色を決定づけた。
すなわち一つは理(ロジック)であり、一つは勘(センス)である。
上杉弾正少弼政虎という男は、完全なる後者の将であった。
「今宵、出来せり。」
武田方が理詰めにて打ち立てた必殺の策略を、上杉弾正は勘にて看破した。
上杉軍は夜半、突如思い立って密かに妻女山を駆け降り、鞭声粛々夜河を渡りて、早朝には八幡原に全軍を集結していたのだ。
武田方の行動を探り、密偵を放って観測し、方々の情報を精査して合議、作戦立案してから行動を起こしたのでは、とても間に合ってはいない。
勘(センス)の御仁なのだ。
しかもこの勘に、運も味方した。
政虎がそこまで予見していたかは定かではない。
が、結果としてこの日、川中島一帯を覆った濃霧は上杉軍の隠密行動を武田方から完全に隠蔽せしめた。
上杉軍一万三千、武田本隊八千、平野の合戦では甚だ並々ならぬ戦力差である。
更には兵の士気が違う。
山を落ち延び逃げて来た敵を悠々と迎え討つはずの武田方は、上杉方の神懸かり的奇襲返しにて、霧が晴れると同時に意気盛んなる敵全軍を眼前に見た。
兵は、浮き足立った。
白装束に身を包む上杉弾正は、騎上にて抜刀せしむ。
「蹂躙せよィィイイイーーーッ!!!」
けたたましき地鳴りが響く。
上杉全軍が疾風迅雷の如く、武田本陣に突撃した。
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さて、源太左衛門。
「決死行にて山を駆け降り、御屋形様をばお救い申さねば!」
弟・兵部丞昌輝が興奮気味に語るより先に、源太左衛門と父・一徳斎は、既に下山の進路確保を見極めていた。
山県、馬場の両将も
「刀、返せィィイイイーーーーッ!!!」
迅速である。
徒歩兵を捨て置き、騎馬隊のみ先行して、直ちに妻女山を駆け降りた。
(さしずめまるで、鵯(ひよどり)越えの逆落としよ)
笑っている。
源太左衛門は、落ち着いている。
この武勇豪胆なる若武者は、その怒涛が如き熱情と、沈着なる冷静さとを併せ持っている。
次代の真田一門を背負って立つ、大名の器であった。
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落ち着いている。
「山本菅助某、討ち死にィーーーッ!!!」
眉一つ動かぬ。
「弟君、武田典厩信繁殿、御討ち死に召されィーーーッチ!!!」
能面のように、表情が微動だにせぬ。
武田大膳大夫晴信。
この男に、情というものはないのか?
否。
まこと情深い。
恩情の御仁である。
しかし、大将なのだ。
この極限的危機的戦況、ひとたび大将が狼狽えれば、忽ち動揺は下士官に伝播し、軍は瓦解する。
一分の隙をも見せてはならぬ。
激動の戦国乱世を生き抜くこの男の戦歴は、順風満帆ではない。
若き頃、憤怒に呑まれ感情を制動できなんだばかりに、上田原大合戦では父のように慕う板垣駿河守、甘利備前守、両将を喪った。
砥石攻めには逸る気持ちに隙が出た。心の乱れを衝かれ、軍容は崩れ、多くの将兵を死なせたのだ。
(源太の父・一徳斎がこの砥石城を策略を以て陥とせなくんば、今の武田家はない。)
齢四十、戦、戦の生涯を戦い抜き、幾度もの修羅場、死線を潜りて、信濃・甲斐を治める大大名となった。
寵愛せし同志、軍師・菅助の死にも動じぬ。
最愛の肉親、弟・典厩の死にも眉一つ動かさぬ。
今、堂々と本陣に君臨し、不動明王の如く鎮座し、軍容を保つのみ。
これを今しばし耐えれば、妻女山から逆落としを駆ける別動隊が上杉の背後を衝き、想定通りの挟み討ちと相成る。
この極限においてこそ、動かざること山の如し。
並々ならぬ強靭なる精神力、凄まじき重圧を双肩に負いて、なお冷静沈着で居る等、とても常人に成せる業ではない。
人を超え、神懸からねばならぬ。
武田信玄という稀代の英傑が今、覚醒している。
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「ハイヤァーーッ!!」
駆け降りた。
ひたすらに駆け降り、八幡原へ向かう。
源太左衛門の視界には、霧が晴れ、両軍激闘を繰り広げる八幡原の全容が、次々と背に駆け抜ゆく木々の合間から見えてきた。
さすがに精強武田騎馬隊は、この無茶ゴリ押しなる急斜面の駆け降りにおいても、驚くほどに落伍者が出ぬ。
甲州武人は人馬一体、今暫しにて麓に辿り着こうという刻である。
(この高揚感、戦こそ華よ、戦国乱世よ)
源太左衛門には不思議と、不安は微塵もなかった。
御屋形様が討たれれば、武田は、真田は、其の様な事は思いもしなかった。
史上に刻む大合戦に、身を投じている。
今、此処に、駆けておる。
戦場を行くこの意気盛んなる若武者の、清々しき程の高揚感が、戦国乱世を駆け昇る真田家栄達の写し鑑にも思える。
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武田本陣が、まさに突き崩されんとしていた。
上杉の猛攻の凄まじさ、龍とも軍神とも讃えられる謙信公の軍略、此れに極まれり。
信玄公は依然本陣を一歩も退かぬ、堂々、鎮座している。
将兵の限界はとうに突破していた。
総大将という扇の要が踏み止まるが故に、この鶴翼は辛うじて羽根を拡げている。
しかしもはや、折れかかっていた。
敵方の意気天を衝かんとの最中である。
と、その時、上杉軍後方に怒声が轟いた。
「真田源太左衛門、此れに在りッ!!!」
ついに妻女山から駆け降り八幡原へ達した別動隊が、背後から急襲を仕掛けたのだ。
一番槍は、源太が突いた。
馬場、山県両将は此れに続く。
挟み討ちとなった上杉兵の、其の一瞬の動揺を、この男は見逃さぬ。
此処に至るまで微動だにせなんだ総大将・武田大膳大夫晴信は、まさにこの瞬間を待っていた。
「押し返せィィイイイーーーーッ!!!」
山の如く仁王立ちて、風林火山(孫子兵法の一節)を刻む軍配を返して、咆哮せしむ。
忽ち劣勢と優勢が入れ替わった。
戦には流れがある。勢いがある。
名将は、その一瞬の機微をば見逃さぬ。
「退けィィイイイーーーーッチ!!!」
上杉弾正少弼政虎は、つい今し方まで武田方を蹂躙し、頗る勝勢、まさに本陣を突き崩さんとするにもかかわらず、この一瞬に転じた戦の流れを即座に察し、この圧倒的勝勢に寸分の未練もなく、何の執着もなく、撤退を即決した。
古今稀に見ぬ、鮮やかなる引き際であった。
挟撃の成る余勢を駆り、武田方の猛追が上杉方を襲うかと相思われたその時、
「深追い無用ォォウウウチッーーーーーッイチ!!!」
大号令が響き渡った。
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「敗勢の上杉方、なぜ追わぬのですか、兄者!逃げる背をば蹴散らして、死した者達の仇討ちを、今こそ・・・ッゥブチ!!」
源太左衛門は、逸る弟の顔面を全力でブチ殴り奉った。
「兵部よ、青二才なり」
冷徹にそうは言う、しかし摩利支天の如く仁王立つ源太左衛門の瞳の奥には、轟轟と怒りの焔が燃えている。
敵方上杉への怒りに、ムチ震えているのだ。
「決死の殿軍はまさに死兵。身命投げ打ち退路を死守す敵に当たるは、此れ愚策なりと孫子兵法も論じておろう。
これ以上の犠牲は、不要よ」
弟・昌輝は、己が短慮を恥じて、神妙に座した。
「然して、上杉を退け、川中島は我らの領土と相成った。・・・御屋形様は、落ち着いておられる」
「兄者、相すまぬ。」
「良い、兵部よ。此れが武田の戦。真田が為、よく学べぃ」
父・一徳斎の表情は、此れは、息子達の成長を頼もしく思った事であろう。
源太左衛門の在わす戦場には、秋の風が吹き抜けた。
第一文銭「秋風川中島」了
〜続く〜
※この物語はフィクションです。
※一部、設定が史実の通説と異なる場合があります。ご了承ください。
【参考文献】