『源太左衛門~真田六文戦記~』第五文銭:暗雲高天神

 

 


―巨星、墜つ。

 

武田法性院信玄、逝去。(享年五十二)

 

 


一月末、行軍中に体調を崩した武田信玄は病床に倒れ、そのまま、帰らぬ人となった。

 

 


元亀四年春、先の三方ヶ原合戦からわずか四ヶ月後の事である。

 

 


「・・・御屋形様っ!」
うぐぅ・・・おぉ・・・御屋形様ァァーーッ!!」


陣幕に臥せる亡骸を囲み、諸将は、号泣せしむ。


「・・・信じられぬ、何故こんな事に・・・」
「御屋形様、目をお開けくだされ~~!」
「うぅ・・ぉお御屋形様ァァーーッ!!」
「・・・・・・・・・・」

ザーーーッと、雨が叩き降る。
薄暗い陣屋には、すすり泣き叫ぶ諸将らの悲嘆が虚しく響いていた。

 


将・山県は、拳をわなわなと震わせる。
「・・・御屋形様の遺志を遂げむ!斯くなる上は、直ちに進撃を」


信玄の遺言である。
臨終間際、傍らに侍る将・山県の手を握り、信玄は言った。
「・・・京に、武田の旗を立てよ・・・」


最期まで、天下獲りへの野望を夢見、逝った。

 

老将・馬場美濃守は茫然自失と虚空を眺め座しておったが、はっと、立ち上がる山県を引き止める。
「・・・源四郎、落ち着けィ。もはや、此れまで」


高坂、内藤、秋山、小山田、各虎将。
オンオンと涙し、あるいは陰鬱なる面を伏せ、ただ黙している。

 

「放せィ、爺ぃーっ!!御屋形様はァーーッ!!」

山県は涙を散らし、泣き叫んだ。


「・・・もう、おらぬのだ」

馬場美濃の横顔は、悲愴であった。

 

 

 

 

源太左衛門。

諸将に並んで信玄公の骸前に座し、暗く俯いている。

心は、虚ろ。

(天下を治める英傑たるは、御屋形様と信じておった・・・)

 

志半ばで果てるとは、自身も、さぞや無念の事であろう。


荘厳にして慈悲深く、民草を安んじ国を守護せし、その雄姿は武士団の羨望、畏怖、まこと精神的支柱であった。


(・・・優しい御方であった)


源太の目に、自然、涙が溢れた。

 


隣では、次弟・兵部がオンオンと男泣きに泣いておる。

三弟・喜兵衛は眉間に皺深く面を伏せ、一言も口をきかぬ。
ツーっと、目から涙が一筋、伝う。

 

雨音と悲号が虚しく響き、暗い陣幕は誰もが悲嘆に暮れていた。

 


馬場美濃守は、無気力にだれる。

「・・・御屋形様亡き今、上洛は果たし得ぬ。・・・此れまでじゃ」


武田家は、あまりにも偉大過ぎる棟梁を喪った。

 

 

 

四月末。
武田軍は京への進軍をあきらめ、本国・甲斐へ撤退した。

 

 

 

 

 

 


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六月。

源太左衛門は甲斐、躑躅ヶ崎(つつじがさき)館へ参内す。

大広間には武田家一族家臣ら御一同、ずらりと勢揃い。

 

ざわざわがやがやと賑わすが、皆、表情は明るくない。

 

真田源太は満場の中段にて座し、弟二人と共に陣取る。


ふと向かい側、正面に座すは、小山田兵衛(ひょうえ)尉。
平素無愛想なツラ構えだがこれは、いよいよ、死人の如く無気力である。

陰気なツラで気が滅入るが、しかし、御屋形様を喪い心より落ち込む様、人情を感ず。不快ではない。同志なのだ。

 

 

 

さて、大広間奥中央の上座には、いつも信玄公が堂々鎮座したものだが、今はもう居ない。

代わりに齢二十代後半、精悍な若者が姿勢正しく居座り、一同を臨んでいた。


諏訪四郎勝頼である。

 

 

 

 


嫡流、という概念がある。


武家の棟梁はその正妻の長男、すなわち嫡男(ちゃくなん)こそ代々正統なる継承者。
たとい棟梁の実子だろうと、次男や三男、側室の子らは庶流である。

 

 


この四郎勝頼なる若者、武田信玄の実の息子だが、四男坊で、母は側室だった。


当然武田総本家は継ぐべくもない。
よって幼少期に武田家を出され、臣下・諏訪家に降籍し其の名跡を継いだ。

 

やがて成長せし諏訪勝頼は、容貌精悍にして武勇豪胆。

若くして歴々の合戦に活躍し誉れ高く、優秀な家臣の一員として、諸将と共に武田軍団を支えゆく生涯を歩むはずだった。

 


・・・が、奇妙なる宿縁、運命の歯車は狂う。

 


あまりに突然の信玄の死。そして武田総本家の、お家事情である。

(信玄の嫡男・太郎義信は先年、謀反の罪を問われ自殺。次男・二郎信親は、盲目のために出家し僧となっていた。三男・三郎信之は生来病弱。幼年にして早逝している。)


・・・後継者がいなかった。

 

斯くして継承権一位に躍り出たるが、この四郎勝頼である。
此の度、外戚・諏訪家から急遽呼び戻され、非常時例外的手続きを経て、武田総本家の棟梁を継ぐ。

 

武田大膳大夫勝頼と号す。

 

 

 

(・・・勝頼様、御立派に成られたものだ)


幼少の時風より見知ったる源太は、若殿の威風堂々を感慨深く思う。

 

・・・が、これはかなり好意的な心象だ。

 

 

此度の家督継承は、至極、多難であった。

 


やむを得ぬといえ嫡流より逸脱する特例の継承。
一族の年配者、叔父御親族一門衆のオヤジどもババアども、おいそれと素直に受け容れてはくれぬ。


(四郎の青二才が、御屋形とはなァ・・・)

(・・・卑しき妾腹の子なぞが、あゝ嘆かわしや)

(諏訪の外戚に当主が務まるものかよ・・・)


卑屈である。

 

 

 

また譜代重臣ら家臣団御一同も、これは並々ならぬ。


武田二十四将とも称されし綺羅星の如き歴々の豪傑策士将帥ども、これを一統まとめ上げるなど、まことに難儀を極まれり。

(もともと武田軍団は単純な殿様と家来の主従関係にあらず、独立性高き地方領主達が武田総本家を中核に結託する諸国連合体の性格が強い。各武将らは厳密には家来でなく、同盟者と言えよう。)

 

この事情複雑たる武田家中を強烈に統率し、戦国最強軍団たらしめたカリスマ性とは、武田信玄なる稀代の英傑なればこそ。

 

(・・・父上には遠く及ばぬ、私には甚だ力量不足。わかっておる。
わかっておるが・・・それでもッ)

 

それでも勝頼は、この大役、務め上げむと決意する。

生来実直、生真面目の御仁である。

 

信玄公を喪った武田家は今、まさに家中存亡の危機。
数奇な命運にて新当主と成るからには、必ずや偉父の遺した家を立て直し、次代へ継ぎ奉らむと決起する。

いかなる不満や誹謗をも呑み、いかなる障壁、困難も果敢に挑むは決死!不退転の覚悟である。


(御旗、楯無も照覧あれッ!)

 

 


「・・・御一同ッ!!」

 

凛々しい雄叫び。

咄嗟に一座、静粛にひれ伏す。

 

 

 

「若輩なれど、誠意、務めむ。

・・・何卒宜しゅう、お頼み申す」

 

誠実謙虚、深々と頭を下げた。

 

 

「「ははーーーっ!!」」


一同揃って、平伏す。

 

 

 

 

武田勝頼という御屋形、決して無能ではない。
むしろ其の将器、甚だ有望である。


・・・唯一つの弱み、それは、父が偉大過ぎた。

 

 

 

(この御仁に身命捧げむ!新生武田家は、これからじゃ)


(弱輩者、なれど心意気や良し!我ら宿老、生涯賭して、立派な御屋形に育て上げむ)


(情けなしッ・・・!家臣に頭を垂れねばならんか、武田の御屋形が)


(・・・信玄公を継ぐ器に非らず。我ら一族、身の振り方を考えておかねば)

 


一門、諸将、多々様々なる思惑が相居並ぶ。

 

 


信玄公のもと家中団結の一束と成りて駆け抜けた、


かつての武田軍団はもはや無い。

 

 

 

 

 

 

 

 

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源太は里帰りした。

久々の休暇である。

 

甲斐より遥々信濃へ下り、地元の真田郷へと一時、足を運んだ。

 

「「父上~~!!」」

邸宅の門をくぐるとドタドタと、子供たちが出迎えた。


「よぅしよぅし、ヨゥエモン、ヨザエモン、息災であったか」

男児双子の幼兄弟、与右衛門と与左衛門は、源太の愛しき息子らである。


ヒョイと抱き上げ、ワシャワシャと頬擦りする。
嬉しそうに、はしゃいでおるわ。

 

「これこれ、騒ぐとまたお咳が出ますよ」

妻・於北(おきた)が顔を出す。


「御前様、お帰りなさいませ」
玄関にて礼儀正しく膝を折り、亭主の帰りを出迎えた。

「うむ。ただいま、帰ったゾイ」

 


「「ジィジさま!御父上が~~!!」」

嬉しそうにドタドタとはしゃぐ幼兄弟は、屋敷の縁側に寝そべる爺ィをユサユサ起こす。

「・・・ん・・ぅぐう、源太か」


源太の父・一徳斎幸隆は智略鋭敏、稀代の策士として恐れられ、かつて信玄公の軍師として歴戦を駆け巡ったものだが、引退して、もはや隠居も数年。
今やすっかり孫たちに甘い、好々爺である。


「・・・まぁ諸々、あるだろうがな、源太。今は、ゆるりとしていけ」

「・・・父上、御屋形様が」

「聞いておる。・・・時代は、変わってゆく」

 

遠い眼で、空を眺めた。

亡き御屋形様と共に駆けた若き日々、思い返してでもいるのだろうか。

 

「「ジィジさま~!!」」

「はっはっは、これこれ!」

キャッキャッとはしゃぐ孫たちに懐かれ、優しい爺ィの顔に戻った。


(・・・一徳斎は翌年、信玄の後を追うように、静かに息を引き取る。
家族に看取られ、穏やかな最期だった。)

 

 


「・・・さても、於幸(おこう)は息災か」

源太は妻・於北に尋ねる。

「ええ、またも病に臥せがちでしたが、今では少しマシに・・・」


源太と於北夫婦の子らは、二男一女。
末娘の於幸はまだ幼いが、どうも病気がちで、臥せってばかり。


「ケホッケホォ!」

「これこれ、そんなにはしゃぐから、この子らは、もう・・・」


与右衛門、与左衛門の幼兄弟も少し騒げば、こうして咳き込む所があり、身体が丈夫ではない。

 


子らの健康、源太には何よりも気掛かりであった。


(・・・信濃の田舎で、豊かな自然で、すくすく育ってくれればそれで十分というに)

 

 

「源太、帰ったのかえ」

「・・・これは御母上」


源太の母・おとりは、此れは大層パワフルな、ばば様であった。
夫・一徳斎の間が抜けているから、もはや真田一族の長老といえばこのばば様という程のカリスマである。


「徳次郎と源五郎も、帰っております。」
(註:源太の次弟・兵部、三弟・喜兵衛の共に幼名。)

「そうかいそうかい、これは久々に大層賑やかことで。
今宵は、奮発せねばなりませんね」

 


―わっはっはっはははっは!!

 

夕飯は家族団欒、平和なひと時であった。

 


・・・源太左衛門は、一族の家長。
この真田の郷を守らねばならぬ、使命があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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「武田は、これから厳しいでしょうな」


夜、自室で酒を酌み交わしながら、三弟・喜兵衛が切り出した。

(次弟・兵部は大酒に呑まれて、畳でガーガー寝ている)

 


「・・・家中は一枚岩では御座らぬ。兄上も気付いたでしょう」

 

喜兵衛の言う事はよくわかる。

 


「憂慮してきた事が、現実となった」

 

かつて潮風吹かれし薩埵(さった)峠で、今川家臣どもは保身に走り、主家を見捨てて裏切った。

しかし彼奴らとて、守るべき郷があっただろう。
喜々として裏切りをするものかい。
家族と主家とを天秤に賭け、苦渋の、決断だろうよ。


「・・・あの時思った。信玄公亡き後、武田は・・・そして、真田は」

 

しかし、見た。


寒風吹き荒ぶ三方ヶ原で、徳川家臣ども己が命を省みず、ただ主君を守るため凄絶に、忠義に殉じ散ってゆく様。


「心、揺れ動かされたであろう」

 

「・・・忠節の烈士、あれぞ武門の鑑かと」

冷徹能面の如き喜兵衛も、胸の内熱き滾りを感じた。

 


「主君の為、家族の為、誰かの為に懸命に生き、その生涯を捧げたる時。
人の一生は輝くのだ」

 


先代・信玄公を喪った武田家は、これからどうなる?
そして我ら真田一族は、如何に生きるのだ?

 

 

源太は、大酒をぐいと飲み干した。


「ワシは、どちらもやるゾイッ!!」

 


喜兵衛は刮目する。


「・・・我が生涯は武士として、主家に忠義を貫かむ」

源太は誓い、もう一杯飲み干す。


「我らが勝頼様を盛り立て、武田家の栄光を再び世に現出するのだ」

(信玄公への、御恩返しよ・・・)

 


いつの間にやら兵部も、起きて、清聴する。


「そして同時に家長として、この乱世、必ずや真田一族の存続を果たし、次代の子らへと繋いでみせるわ!」

 

なみなみと注ぎ、杯を掲げるは、源太左衛門。

 


もはや迷いなし。

武田を支え、真田を守る。これが源太の生き様である。

 

(頼もしきよ兄者、これぞ真田の棟梁じゃ)

 

「その為に兵部の武、喜兵衛の智、ワシにはどちらも欠かせぬッ!
・・・弟ら。我が半身と成りて、共に真田を守ってくれるか」

 

「応ともッ!」

兵部は豪勢と、杯を掲げる。


「無論でござる」

喜兵衛も静かに、杯を掲げた。

 

 


三つの杯は重なり、各々、ぐいと飲み干した。

 

 

 

 

 

 

 


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織田信長、時代の風雲児である。


その強さとは徹底的合理主義思考と、それを成し遂げる豪胆不屈の行動力にある。


尾張半国の守護代又代より始め、実力を以て戦国乱世を駆け昇る。
今や畿内中枢八ヶ国を掌握する、大大名となった。

 

御旗に刻むは"天下布武"。
武力による天下統一という明確なビジョンを、これほど鮮明に掲げる大名は他にない。

 


・・・が、彼の覇業に、最大最強の敵が立ち塞がった。

 


武田信玄である。

 

 

順風なる信長の覇業は突如、四方八方を敵に囲まれる危機に転じる。
(裏から諸大名を一斉に反織田に決起せしめた黒幕は、武田信玄。)

いわゆる信長包囲網である。


さらには徳川家康が敗れ(三方ヶ原の戦い)、いよいよ武田軍全戦力が一斉に、信長にトドメを刺さんと押し寄せた。

 

この生涯最大の危機に、信長はどう対応したか。

 

 

「・・・是非も無しッ」

 


―逃げた!

 

早々に本拠・岐阜城を放棄し、決戦を避けて京都へ逃げた。

・・・一廉(ひとかど)の大名が、こうもあっさり国を捨てるとは、なかなか出来る事でない。

 


臆病風に吹かれたわけでも、自暴自棄となったのでもない。

至極、冷静である。

 


斯くも徹底した合理的思考、大胆不敵な行動力。これが信長の強さだろう。

 


逃げの一手で合戦を避け、劣勢挽回の策を昼夜徹して熟慮せむ内に何と、

 

信玄が死んだ。

 


豪運と言っていい。

斯くして織田信長は生涯最大の窮地を、戦わずして切り抜けたのだ。

 

 

武田の脅威が一時減ず、この絶好の機を逃さない。

信長は打って変わって怒涛の攻勢に転じ、次々と敵対勢力に襲い掛かる。


元亀四年七月、足利将軍家を放逐。
(ここに二百三十年続いた室町幕府は滅亡する。)

さらに八月、越前の朝倉家、九月には近江の浅井家を、相次いで攻め滅ぼした。
(いずれも一時代を築きし大名家、ひと月で滅ぼすとは尋常でない。)

信玄の遺した包囲網は一挙に崩れ、パワーバランスは立ちどころに逆転する。

 

斯くして、権威絶世!
朝廷すら掌握した信長は、織田新時代を象徴すべく世の元号を"天正"に改元せしむ。

 


畿内北陸中部東海、十数ヵ国に君臨す。

 


織田信長は今、稀代の傑物と化けた。

 

 

「我が"天下布武"、成就の為。

・・・武田、滅ぼさにゃあならん」

 

 


決戦の時は、近い。

 

 

 

 

 

 

 

 


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明けて、天正年間。

 

甲斐・躑躅ヶ崎館に激震が奔る。

 

 

「お、奥平貞昌殿、御謀反ッ~~!!」

 


大広間の家臣団一同、ざわざわがやがやと、動揺を隠せない。

 

 

(ついに武田家中から、謀反者が出たか・・・)

源太左衛門は歯軋りをした。

 

平氏が治める長篠城はじめ奥三河一帯は、武田-徳川最前線の要衝地帯。
ここを敵方に削り獲られるは、国防上の重大なる危機、由々しき事変である。


・・・何か恐ろしき事態の、序曲のように感じられた。

 

 

家臣団には世代交代にて、新参の顔がちらほら見える。
特に動揺が激しい。


「徳川に降るなぞ、トチ狂ったか奥平ァーーッ!!」

「待て待てィ今や織田・徳川は、かつてと比類無き程の大勢力!!」

「・・・このまま国境を放置すれば、取り返しのつかぬ事に」

 

一方で譜代重臣らの戦略眼は、遥かに広い。

小僧らの言う事など相手にしておらぬ、黙して、上座の御屋形を注視した。

 

 


勝頼公は、落ち着いている。


「・・・先手を打たれた、という事であろう」

 

 


然様、さすがに勝頼様は、武田の御屋形の器である。
しっかと戦況を理解されておる。


源太には若殿の堂々たる姿、嬉しく思えた。

 

 


この謀反、無論、織田・徳川方の調略である。


もうすでに、始まっている。

 


大国と化けた織田・徳川軍、対する新生・武田軍との、未曾有の大合戦はもうすでに始まっているのだ。

 

「・・・長篠はじめ奥三河を得た徳川の防衛網、容易には破れぬ。
ここに攻め入り、足止めをくわば、その隙を逃さず織田が来る。
挟撃されれば窮地となろう」


重臣らが奏上すまでもなく、勝頼公は、見事鮮明なる軍略を説く。


「後手に回るも我らは、敵の罠には乗らぬッ」

 

御一同、新たなる御屋形様に刮目した。

 


「次の一手は、三河にあらず!楔を打つべきは、遠州・・・」


軍配を掲げる凛々しき御姿。
源太は此れに、信玄公の面影を見た。


「・・・高天神城ッ!!!」

 

 

 

 

 

 

 

 


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高天神城は、遠州の重要拠点。

難攻不落の城塞にして、かつて武田信玄が大軍で囲むも攻め落とせなかった程の徳川方の堅城である。

 

 

 

これが、瞬く間に落城する。


天正二年春、武田軍による想定外の襲撃に不意を突かれた織田・徳川は、対応が遅れた。

疾風怒涛であった。

 

「・・・勝頼様、御戦勝!祝着至極ッ」
「かつて信玄公でも落とせなかった要害ですぞ、此処は!」


武田方の大勝利である。

 

 


信玄の死から早一年。
勝頼率いる新生・武田軍団の華々しき戦果は、其の威光を天下に轟かせた。

 

(・・・父上、御照覧あれィ。四郎が必ずや、武田を継いでみせまする)

 


信玄公を喪った武田家が、立ち直りつつある。
勝頼公を盛り立てて、我らが新たな時代を築かむッ!!

そんな高揚感が滾り、家中に希望の光が差している。

 

 


源太左衛門も、昂ぶっていた。

 


・・・が、高天神城を覆うこの曇天の、陽を遮る暗い雲に感じる一抹の不安は何なのか。

 

 

 

 

 

 

 

第五文銭「暗雲高天神」、了

~続く~

 


※この物語はフィクションです。
※一部、設定が史実の通説と異なる場合があります。ご了承ください。

 


【参考文献】

甲陽軍鑑』、『真田家譜』、『仙台真田代々記』、『信綱寺殿御事蹟稿』、『高白斎記』、『甲斐国志』、『当代記』、『伊能文書』、『越後野志』、『上杉家文書』、『上越市史』、『松平記』、『三河風土記』、『北条五代記』、『信長公記